修験道の歴史

飛鳥・奈良時代(6世紀末~8世紀末)
修験道は、奈良時代の前、飛鳥時代に活動した半僧半俗の行者【役小角(役行者)】が開祖として創始したとされています。役行者の生没ははっきりとしていませんが、奈良時代より前であることは資料からわかります。修験道の霊場やお寺等には、開祖として役行者が祀られていることが多くあります。

平安時代末・室町時代(11世紀末~16世紀半)
平安時代末期から修験道は吉野や熊野を中心に発展を遂げるようになり、多くの修験者が修行のために諸国を回り、各地の霊山で修行を行いました。歌舞伎の【勧進帳】では、奥州(現代の東北地方)へ逃げる源義経一行が山伏の姿で関所を通過しようとする物語が描かれます。【勧進帳】は江戸時代の作品ですが、かつて山伏が各地を回って寺社への勧進(寄付)を行っていたことがわかります。室町時代後期には、修行の作法、教義、組織なども整えられるようになり、熊野を中心に修験教団、本山派が形成されました。羽黒山や英彦山などの地方の霊山にも、その影響が及ぶようになってきます。

江戸時代(17世紀~)
江戸時代になると、幕府は修験者の移動も禁止します。
これによって修験者は自由に遠くの山岳霊場まで修行に行くことができなくなり、地元に定着して修行を行うようになります。また、幕府は、修験道に対して規則を定め、天台宗系の本山派と真言宗系の当山派という二つの宗派を中心に、各地の修験者たちを再編しました。里に定着した修験者は、雨乞い、作物の豊作祈願、病気等の祈祷など、民衆の様々な呪術的な欲求に応えていくようになります。

明治以降・現代(19世紀半~)
明治時代になり神仏分離令がだされた後、修験道廃止令が出されました。この時、修験者は、天台宗か真言宗の僧侶となるか、神主となるか、あるいは一般人に戻るかを選択しなければならなくなりました。また、祈祷等の呪術的な活動は、庶民を幻惑するとの理由から、これらの活動を生業とすることが禁止されてしまい、公式には、修験者(山伏)は存在しないものとなってしまいました。
現在の修験者の多くは、伝統的な仏教教団や、特に修験系の宗派(本山修験宗、金峯山修験本宗など)に属し、一般の職業に就きながら修行を続けています。