伊賀八幡宮

応仁の乱(1467-1477)に始まる戦国時代の真っ只中、松平家4代目親忠公は、松平家の子孫繁栄・武運長久と天下泰平への願いを込めて、文明2年(1470)、伊賀八幡宮を創建しました。そして「厭離穢土、欣求浄土」の旗印を掲げました。

親忠公から5代ののち、松平家9代目として、天文11年(1543)12月、家康公は生まれます。100年近い時を経ても、戦乱の世は治まっていませんでした。天下泰平を思い戦った徳川家康公は、大きな戦の前には欠かさず、松平家の守護神 伊賀八幡宮に戦勝祈願をしたと伝えられています。

慶長8年(1603)、征夷大将軍となった家康公は、慶長1...

久能山東照宮

元和2年(1616)4月17日、徳川家康公は天下泰平をもたらしたのち、駿府城にて75年の生涯を終えました。江戸時代初期の僧侶が記した『本光国師日記』によると、家康公は「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」と言い残して、この世を去ったと言います。

その遺言に従い、御遺骸は久能山に埋葬されました。その後2代将軍秀忠公がその地に久能山東照宮を創建しました。廃止されたものも含めれば、全国に500社以上あったと言われる東照宮の中でも、最初に家康公がお祀りされ...

鳳来山東照宮

鳳来山東照宮は、歴史情緒あふれる鳳来寺山の中腹に位置します。鳳来寺山は、標高695mと登山家達の挑戦心を煽るような険しい山ではありませんが、歴史や大自然の魅力を存分に味わいながらハイキングを楽しむには最適な登山道で、国の名勝・天然記念物にも指定されています。この山には、徳川家康公の出生に大きく関わる重要なエピソードが伝わっています。

江戸幕府3代家光将軍が、日光東照宮に参拝した折に、『東照社縁起』に記された徳川家康公出生にまつわるエピソードにふれ、鳳来寺山の地に東照宮を創祀することを決めたといいます。東照社縁起には以下のように記されています。

「東...

龍城神社

龍城神社は岡崎城の跡地である岡崎公園の敷地内に鎮座しています。岡崎城は、徳川家康公生誕の地であり、19歳の時に旗揚げをした大変ゆかり深いお城です。龍城神社の社記によれば、その起源はそれから約100年前の15世紀半ばまで遡ります。

当時、三河国(現・愛知県東部)の守護代であった西郷弾正ェ門稠頼という人物が、岡崎城を築城した時に、龍神があらわれ「我はこの地に永く棲む龍神だ。我を鎮守の神と崇め祀れば、この城を守り、この地の末永い繁栄を約束する。」と言った。まさにその時、城内の井戸から水が天高く噴き出し龍神に降り注ぐと、黒雲が空から天守を包みこみ、龍神の姿は消えうせた。それ以来、...

松應寺

岡崎城主であった徳川家康公の父・松平広忠公は、天文18年(1549)、家臣によって暗殺されるという非業の死を遂げました。広忠公の遺体は能見原の月光庵で埋葬されました。家康公8歳の時のことでした。この時、家康公は織田の人質として、現在の名古屋で暮らしていました。父の死後、家康公は人質交換によって今川家へ移ります。その道中、月光庵の父のお墓に参りました。墓上に小さな松を1株植えると、その松に松平家の繁栄を祈願しました。

今川義元の死後、人質生活が終わり、岡崎城に入城した家康公は、広忠公の供養のため月光庵の地に新たに寺院を建立しました。かつて植えた松が大いに繁っていることを見る...

日光東照宮

265年に渡る平和の礎を築きあげた徳川家康公は、元和2年(1616)4月17日、75歳でその生涯を閉じます。江戸時代初期の僧侶が記した『本光国師日記』によると、家康公は「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」と言い残して、この世を去ったと言います。その遺言に従い、一周忌の後の元和3年(1617)、日光の地に徳川家康公を祀る東照宮を創建します。

日光東照宮と言えば、その壮麗な姿を思い浮かべる人も多いでしょう。その社殿のほとんどは、寛永13年(1636)...

本證寺

本證寺は13世紀の初めごろ、鎌倉時代に親鸞の門弟・慶円上人によって創立された浄土真宗大谷派の寺院です。阿弥陀如来立像を本尊としています。創立以降、三河地域の中心的な寺院として栄えてきました。鼓楼・土塁・お堀を備えるその姿は城郭と見紛うほどです。

永禄6年(1563)の三河一向一揆、その時に徳川家康(当時は松平)と対立した中心的寺院の1つが本證寺でした。一揆は半年続き、家康家臣団を真っ二つに分けての闘争となります。一揆終焉の後、本證寺の僧侶は領国追放となり、主要なお堂も破却されてしまいます。しかし、終わりのない戦乱から民を救いたいという願いが一向一揆に込められていたこと...

菅生神社

第12代景行天皇の御代、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の時(110年)、高石(今の菅生川畔の満正寺あたり)にて矢を作り、神風にて一矢を吹き流し、その矢を以って伊勢大神を奉祀されました。菅生神社は、この時創建された岡崎最古の神社です。その後、神亀2年(724)山城国より稲荷大明神を勧請、延喜年中(901~922)吹矢大明神(又は稲前神社惣社神明宮と申し上げる)、正応2年(1289)河内国より菅生天神を祀る。永正14年(1517)額田郡宮崎より牛頭天王が菅生川洪水の時、高石の地に御流着の為、合祀されました。正保2年(1645)岡崎城主の水野忠善公が東照宮(徳川家康公)を本殿にお祀りさ...

大樹寺

大樹寺は、松平4代親忠が文明7年(1475)に創建した浄土宗の寺院です。本尊の阿弥陀如来は平安末期の作られたものと言われます。松平家・徳川将軍家の菩提寺としてよく知られています。

徳川家康公は19歳の時、今川義元の尾張侵攻の先陣をつとめ大高城に居ました。しかし、後方の桶狭間で今川義元が織田信長に討たれことで戦況は一変。進退窮まった家康公は大樹寺へ逃げ込みますが、もはやここまでと先祖の墓前で自害することを決意します。

その時、大樹寺の13代住職登誉上人は「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」―戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目―...

仙台東照宮

仙台の東照宮は仙台駅から北に2キロほどの小高い丘の上にあり、独眼竜の異名で知られる伊達政宗公の後継者にあたる仙台藩2代藩主伊達忠宗公によって承応3年(1654)に創建されました。

天正19年(1591)、葛西大崎一揆の鎮圧に援軍として奥州へ向かった徳川家康公が政宗公の案内でその帰路に休息した地に創建されました。またこの地は仙台藩の中心である青葉城の正確な北東(鬼門)の位置にあたりまさに仙台城下町の守り神として鎮座しています。

造営にあたっては実に5年のときをかけ、全国から良材を集め、選りすぐりの一流の職人を筆頭に総勢83万4835人が従事したと言われていま...