泉岳寺

東京都心(港区高輪)に堂々と佇む姿が印象的な泉岳寺は、曹洞宗の名刹で、江戸三ヶ寺と称えられる東京の代表的な寺院の1つです。時代劇でお馴染みの赤穂浪士のお墓があることでも有名で、討ち入りの日には毎年多くの人が訪れます。この泉岳寺が、徳川家康公自らの命により創建されたことは意外と知られていないかもしれません。

家康公は、慶長17年(1612)、幼少期をその下で過ごした今川義元の菩提を弔うために、江戸城のほど近い外桜田(現在の桜田門付近)に泉岳寺を建立します。開山にあたり迎えられた門庵宗関和尚は、今川義元の孫であるといわれています。寛永18年(1641)の大火によって焼失してい...

大聖寺

大聖寺は、天平勝宝2年(750)に、東大寺を開山した良弁僧正作の不動明王を祀り開基されました。以降、不動院と称され、岩槻城主から篤く崇拝されるなど、大いに栄えました。江戸入城のち、民情視察のため関東各地を巡遊していた家康公はこの寺院に宿泊し、その時に寺領60石を与えるとともに、寺号を「大聖寺」と改めたと言います。また、慶長5年(1600)、関ヶ原への出陣の折には、大聖寺にて戦勝を祈願し太刀一振を寄進しました。当時の定伝住職はこの刀を護摩壇に立て祈祷を行い、「この刀が西に倒れれば西軍(石田方)の敗け、東へ倒れれば東軍(徳川方)の敗け」と願をかけたところ、刀は西に倒れました。周知のとおり、そ...

須賀神社

須賀神社は、現在の栃木県小山市に鎮座する1070年の歴史をもつ神社です。承平5年(935)に起こった平将門の乱の鎮圧にあたり、この地の武将であった藤原秀郷公はスサノオノミコトに日夜戦勝を祈願し、見事に平将門を討ち取りました。祈願が成就したことで、天慶3年(940)4月、京都の八坂神社から御分霊を勧請して祀ったのが須賀神社の始まりです。

それから660年後、関ヶ原の戦いから遡ること2か月前の慶長5年(1600)7月、徳川家康公は会津(現在の福島県)の上杉討伐のために進軍し、途中で小山の地に到着しました。その時、西で石田三成が兵を挙げた、との報せが家康公に届きました。家康公は...

愛宕神社

徳川家康公は、慶長8年(1603)、江戸に幕府を開くにあたり、防火の神様として愛宕神社を創建しました。火の神である火産霊命が主祭神として、お祀りされています。日本の行政の中枢・霞が関や東京随一のビジネス街・虎ノ門のほど近く、まさに都会の真ん中に位置しながら、豊かな自然に囲まれ、都会のオアシス的な存在です。

愛宕神社がその頂上に鎮座する愛宕山は、東京23区内の自然の山では最も高い山であると言われています。その標高は25.7m、さほど高くないと感じるかもしれませんが、高層ビルのなかった江戸時期においては、関東平野を一望でき、遠くは房総半島まで見渡せていたと伝わります。

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高月院

もとの名を「寂静寺」といい、寛立上人が在原信重公の援護を受けて南北朝時代の西暦1367年に建立したといわれます。徳川家の祖先である松平氏は、西山河地方の山間地、松平郷(豊田市)に土着した土豪でした。約600年前、徳阿弥という旅の遊行僧が松平郷の太郎左衛門家の娘婿となり、親氏と名乗ったのが松平氏の初代となりました。

高月院になったのは、松平親氏公が南北朝時代の西暦1377年に本尊阿弥陀仏をはじめ堂・塔のすべてを寄進してからと伝えられています。その後、徳川家康公から寺領100石が寄進され、明治維新まで時の将軍から厚い保護を受けてきました。また、現在の山門や本堂は寛永18年(1...

大國魂神社

大國魂神社は、第12代景行天皇の41年(111)、大國魂大神をお祀りし、現在でいう東京都府中市に創建されます。大國魂大神は、その昔、武蔵国を開拓し、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教え、この地を発展させたと伝わります。創建以来現在に至るまで、1900年以上の長きに渡り武蔵国の守り神と崇敬されてきました。(武蔵国:およそ現在の東京都西部・埼玉県西部を中心とする地域)

天正18年(1590)、国替えにより関東へ入国した徳川家康公も同様に、社領500石を寄進するなど大いに崇敬しました。神社の西側ほど近くに府中御殿を建て、しばしば鷹狩に訪れたなど、関東入国以来この地に...

薬王寺

栃木県鹿沼市の薬王寺は、弘長年間(西暦1261~62年頃)、伝教大師作の薬師如来をご本尊として創建されました。以降、現在に至るまで750年以上の歴史を持つ寺院です。その歴史の中で、徳川家康公と大きな接点がありました。家康公1周忌の後の元和3年(1617)、久能山から日光山へ改葬のため、家康公の神柩は19日間をかけて大移動をします。薬王寺には、そのうちの4日間滞在し、盛大な法要がとり行われたことが伝わっています。なぜこの地にとどまったか確かなことは謎に包まれているものの、日光へ入る前の最後の宿泊地であることは、重要な意味を持っているでしょう。薬王寺には、久能山から日光までの道程を記した「東照宮渡...

静岡浅間神社

神部神社・浅間神社(二社同殿)及び大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と呼びます。神部神社は第10代崇神天皇の御代、約2100年前に駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座され、延喜式内社であり、平安時代には駿河国総社となりました。『国内神名帳』には美和明神と記され、『類聚国史』に従一位と記載されており、この地方最古の神社となります。浅間神社は延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀され、爾来富士新宮として国司の尊崇を受けました。大歳御祖神社は応神天皇4年(273)、今から1700年ほど前に、古代この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「...

増上寺

東京のシンボルマーク・東京タワーのすぐそばで、タワーを凌ぐような存在感を放つ寺院が増上寺です。増上寺は、明徳4年(1393)、浄土宗第八祖酉誉聖聰上人により開山、関東の浄土宗信仰の中心でありました。天正18年(1590)、関東へ入国した家康公は、当時の住職源誉存応上人に深く帰依したと伝えられています。

家康公は増上寺を徳川家の菩提寺に定め、慶長3年(1598)に現在の芝の地に移転させます。家康公は亡くなる前に、「葬儀は増上寺にて行うように」との遺言を残しました。その後も歴代将軍が手厚く保護し、江戸随一の隆盛を極めたといます。徳川将軍家墓所と定められており、2代秀忠公、...

万松寺

万松寺は、天文9年(1540)、織田信秀公(織田信長公の父)により、織田家の菩提寺として創建されました。天文21年(1552)、周囲から「うつけ者」と揶揄されていた織田信長公が父・信秀公の葬儀にあたり、場にふさわしくない派手な姿で現れ、抹香を信秀公の位牌に投げつけたという有名なエピソードは万松寺を舞台としたものです。

6歳から約3年間を織田家の人質として過ごした徳川家康公は、この万松寺で匿われていたと伝わります。当時13歳であった織田信長公とは、この時に出会っていたとされています。のちに戦国大名となった2人は、本能寺の変で信長公が死す時まで約20年にわたり同盟関係にあり、...