方広寺

方広寺は室町時代初期(西暦1371年)に開山、静岡県を中心に約170か寺ある臨済宗方広寺派の大本山です。古くより多くの修行者が訪れる禅の名刹で、現在でも本格的な禅修行を体験することができます。本堂をはじめとし、三重の塔・総門・山門・五百羅漢など境内には歴史を感じる建造物が立ち並び、見所満載です。また、季節折々の美しい自然を堪能することも出来ます。

この地には、永禄11年(1568)、徳川家康公が岡崎城から今川領の遠江国(現在の静岡県西部)へ侵攻した道中に立ち寄ったことが伝えられています。方広寺のほど近く陣座峠と呼ばれる峠道がありますが、徳川家康公が陣を敷いたことに由来して...

新田白山神社

新田白山神社は、永禄9年(1566)徳川家康公が厄除開運祈願のため、源氏である新田氏ゆかりの地である上野国(群馬県)の新田より勧請したもので(ご祭神は白山姫命と新田義重公)、江戸時代以降、岡崎城の拡張整備に伴い白山曲輪内に引き込まれて、代々の岡崎城主の産土神として崇敬されました。

白山神社では、10月第3日曜日に例祭を行い、町内から獅子や御神輿が繰り出され、拝殿では子供達による巫女の舞が奉納されます。また、6月30日の夕方に夏越の神事が行われ、厄除祈願祭と茅輪くぐり、石鳥居(自然石鳥居)くぐりが境内にある樹齢600年以上ある御神木の大楠前で行われます。この石板鳥居くぐりは...

芝東照宮

芝東照宮は、元和3年(1617)、徳川家の菩提寺である増上寺の境内に創建されます。還暦(60歳)を迎えた徳川家康公が自ら命じて彫刻させた等身大の寿像がご神体として祀られています。家康公は死に臨み、この寿像を国家守護のために増上寺に祀るように命じたと伝わっています。芝東照宮は、当初、家康公の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」により安国殿と呼ばれていました。明治の神仏分離により、増上寺から切り離され芝東照宮と呼ばれるようになりました。

芝東照宮は東京の都心に位置しながら、大変豊かな自然に囲まれています。東照宮の神聖な雰囲気もあいまって、都会の中に安らぎを求めて訪れ...

芝大神宮

芝大神宮は、現代東京中心部のオフィス街・港区芝大門に鎮座、天照大御神・豊受大神の二柱を主祭神としてお祀りしています。その創建は古く寛弘2年(1005)、平安時代まで遡ります。それ以来、関東のお伊勢様として広く崇敬を集めてまいりました。また相殿として源頼朝公・徳川家康公をお祀りしています。

徳川家康公は、天正18年(1590)8月、国替えで関東入府の折りに参拝し、その翌年には社領15石を寄進したと伝わります。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際しては、出陣前に戦勝祈願に訪れました。その後も、徳川家の歴代将軍から厚い庇護を受け大いに栄えました。しばしば火災・震災・戦火に見舞...

清見寺

7世紀後半、この地にあった関所の鎮護のために仏堂が建立されたことが、清見寺の起源とされます。平安時代には天台宗の寺院でありましたが、鎌倉時代に入り禅宗に改修しました。室町幕府を開いた足利尊氏公は、深く清見寺を崇敬しました。清見寺は室町幕府より官寺と定められ、日本を代表する10ヶ寺「全国十刹」の中に置かれ、大いに栄えました。しかし、戦国時代に入ると、地勢的な要害に位置していたこともあり、度々戦場となり、寺院は荒れ果ててしまいました。

今川義元の参謀の役割も果たしていた禅僧の太原雪斎和尚が清見寺を復興し住職となります。太原雪斎和尚は、今川家に人質となっていた幼き徳川家康公に教...

浄珠院

浄珠院は9世紀半ばに慈覚大師が創建し、聖徳太子自作の孝養像を安置したことがその起源とされます。はじめ清光山大海寺と号しました。その後、時が流れて廃絶してしまいましたが、15世紀の初めごろに、松平2代泰親の子、教然良頓上人が京都での修行の末に故郷のこの地に、後花園天皇より砂金と斎田を賜り、仏殿を造立し、浄土宗に改宗して、浄珠院と号しました。その後、松平家代々からの信仰が厚かったと言います。

その松平9代家康(後の徳川家康公)は、人質生活の末、今川家から独立し、岡崎城を取り戻します。しかし、天下泰平に向けて歩み始めた家康公に最初の試練が訪れます。それが三河一向一揆です。家臣団...

臨済寺

臨済寺は、今川氏親が出家した子の義元のために北川殿亭を善得院に改めたことに始まります。氏親の死後、義元の兄・氏輝が今川家の家督を継ぎますが、天文5年(1536)に急逝します。その後、家督を継いだ義元は、氏輝の菩提のため善得院を氏輝の法号(臨済寺殿用山玄公)にちなんで臨済寺と改称し、太原雪斎を住職として招きました。今川家の人質となっていた竹千代(後の徳川家康)は、臨済寺にて太原雪斎の教育を受けました。この地で受けた教育が、後の人生に大きな支えとなりました。

二度の戦火により焼失してしまいますが、後の天正10年(1582)、勅命を受けた徳川家康によって今も残る本堂が再建されま...

上野東照宮

上野東照宮は、寛永4年(1627)、藤堂高虎と天海僧正により東叡山寛永寺境内に創建されました。藤堂高虎は津藩主で築城技術に長け、江戸城を築城した人物としても知られています。天海僧正は、徳川家康公のブレーンとして有名で、江戸の町の設計にも大きく関わりました。江戸の町づくりに大きな影響を与えた2人が創建に関わった上野東照宮は、寛永寺とともに江戸城の東北、鬼門の方角を守護する役割を果たしてきました。

現在の建物は慶安4年(1651)に造営されたものです。社殿・唐門・透塀は、金色に輝く大変豪華なもので、度重なる震災や戦火をくぐり抜け、現在に江戸建築の真髄を伝え、国指定重要文化財に...

六所神社

第37代斎明天皇の御代(655~661)、勅願により奥州塩竃六所大明神を勧請され、神領をご寄進のうえ六所神社は創立されたと伝えられています。その後、第50代桓武天皇の御代(781~806)、田村麿将軍が東夷征伐のためご下向なさる折にご祈願、天皇に奏聞、勅許のうえ再建され六所大明神の勅額を下賜されました。

そして、松平氏が三河入国以来、代々崇敬厚く天文11年(1542)12月26日岡崎城にて竹千代君(徳川家康公)ご誕生の折には産土神としてご拝礼になりました。慶長7年(1602)には家康公よりご朱印状を下さり、石高62石7斗を贈られ、同9年(1604)社殿ご造営のうえご神器の...

松平東照宮

愛知県豊田市の松平郷の地に鎮座する松平東照宮、この神社には徳川家康公と松平親氏公が祀られています。松平親氏公は松平家の始祖で、将軍徳川家の祖先と言われる人物です。伝承によると、室町時代初期(14世紀頃)に、徳阿弥という僧が旅の途中松平郷にたどり着き、その地に居を構えました。この時からその僧は還俗(げんぞく)して松平親氏と名乗るようになります。

親氏公は近隣地域に侵攻、7村を手中におさめます。その後も代々勢力を拡大していき、初代親氏公から数えて7代目松平清康(家康公の祖父)の代に、三河一国(現愛知県東部)を支配するようになります。しかし、清康と8代目広忠(家康公の父)が2代...